令和8年秋季 企画展
『「善峯寺文書」へのいざない』
善峯寺の開山は天台僧の源算上人、長元2年(1029)に伽藍を建立したことに始まると伝え、西国三十三所観音霊場第二十番札所として広く信仰を集め、平安時代末の全盛期には五十余の僧坊があったと言われています。建久3年(1192)には「官寺」に列せられ、のちに後嵯峨天皇の勅願所に定められるなど、貴紳から帰依をうけ隆盛を極めましたが、南北朝期から戦国期にかけて度々の兵火に罹災しました。しかし、徳川綱吉の生母桂昌院との由緒により、17世紀後半に幕府の支援で復興をとげ、17世紀末には、成就坊・実相坊・仙王坊・谷ノ坊・圓月坊・松本坊・放光坊の七坊による寺務運営が行われてきました。
善峯寺に伝来する文書は、令和元年から足かけ七年にわたる調査により、全貌が明らかとなり、総点数7,029点を数え、令和8年3月、京都府の指定文化財となりました。
本展では、これらのごく一部ではありますが、新たに発見された史料や桂昌院との由緒を物語る史料を中心に、そのエッセンスを紹介します。
令和8年秋季 特集展示
「下鳥羽法伝寺の住持争論関係文書」
この度当山にて「下鳥羽法伝寺の住持争論関係文書」の中より羽柴長秀(豊臣秀長)の書状が確認されましたので、特集企画として「豊臣兄弟」が関与した「下鳥羽法伝寺の住持争論関係文書」を展示公開致します。
「善峯寺文書」中の「下鳥羽法伝寺出家願」は、本能寺の変の翌年、天正11年(1858)頃、三条西公國が三男旭應を、遣迎院を後見として法伝寺住持に定めた正当性を主張した文書であり、一連の文書12点が綴じられています。
これらが「下鳥羽法伝寺出家願」として一括で綴じられた理由は、豊臣政権期に、正親町天皇の意向と羽柴長秀(豊臣秀長)の関与・裁定により認められていた住持職が、関ヶ原合戦の後、京都の支配が徳川政権に移行する中、
法伝寺の住持職が浄土宗の「天ねんし」(天然寺、あるいは天蓮社)に奪われようとしたため、三条西公國の子息実条が、慶長6 年(1601)頃に、これらの関係文書を添えて、関ヶ原合戦後に京都支配を託された京都所司代に弟旭應の住持職の正当性を訴え、
「てんねんし」の排除を願ったためです。この特集展示では、出願書の内8点の史料により、争論の経緯・結末を紹介します。
企画展『「善峯寺文書」へのいざない』主な展示品
書状を6つのテーマに分けて展示を行います。主な書状展示品と内容は以下をご覧下さい。
1 善峯寺の縁起
・開山上人自製縁起
開山源算の誕生から老後に至る雑事の自伝記録の写で、室町時代の伝来最古の縁起。
・西山良峯寺縁起
開山源算上人以来の善峯寺の由緒を伝える絵巻として知られており、寺伝では鎌倉時代の作とされ、桂昌院により現在の葵御紋入りの表具が施され寄附されたと伝えられてきた。
2 室町幕府と善峯寺
・足利義政御判御教書
室町幕府は、応永25年(1418)10月5日付のこの「足利義教御判御教書」で善峯寺の所領を安堵した。 その所領の全体像は不明であるが、文安5年(1448)頃から所領の内「荒野・新田」の二箇所において、灰方公文信能の横領などにより争論となる。 室町幕府は以後、永正5年(1509)まで一貫して善峰寺の領有を認めてきたが、永正6年閏8月になり幕府の方針が一転、「荒野・新田」は禁裏御料所となった。
・室町幕府奉行人諏訪晴長・飯尾為忠連署奉書
永禄12年(1569)、室町幕府の奉行人、諏訪晴長(前信濃守)・飯尾為忠(左衛門尉)が、善峯寺の成就坊が買得した田地の領知を認めた奉行人奉書。
3 善峯寺復興への道程
・善峯寺一堂再興勧進状
慶長元年7月12日の大地震で一山伽藍が悉く破滅したため一堂再興のため十方檀那の助縁を請う勧進趣意書。
・山城国乙訓郡西山善峯寺法度
慶安3年(1650)9月、比叡山延暦寺・日光山輪王寺の三山を管轄した毘沙門堂大僧正公海が善峯寺に命じた天下安全祈祷・年中行事・本堂二時勤行・戒律威儀・坊職相続・山林境内・寺中法度の7ヶ条。
4 桂昌院と本庄宗資
・本庄家・桂昌院由緒書写
天明元年に松平伊予守殿の家士佐藤源次右衛門へ遣わしたものの草案。 本庄宗正の摂津国泉原在住のこと、慶長頃に成就坊賢弘に世話になり、のち京都堀川に住したこと、 宗正の後妻昭高院の男子(宗資)出産に際して賢弘の弟子賢位が祈念し、さらに桂昌院出産の際にも、 屋敷へ参り加持祈祷をおこなったことなど、本庄家・桂昌院と成就坊の由緒を伝える。
・善峯寺岩倉両地御建立被 仰付候ニ付乍恐御由緒申上度口上之覚
善峯寺本堂が再興された元禄5年(1692)頃、小塩村の中村「里やうへん」が、桂昌院の「御つほね様」に宛て提出した口上書の控え。 中村家と本庄宗正(太郎兵衛)との関係や、成就坊へ中村家歴代入寺の由緒を上げ、両寺(善峯寺・金蔵寺)の復興に較べ小塩村の衰微を嘆きご配慮を願ったもの。
・本庄宗資書状(三吉煩い見舞ニ付)
差出人・宛名の記載はないが、筆跡・内容からから本庄宗資が成就坊に宛てたと推定される書状。
この1分(銀カ)3ツを先成就坊の召使いに。俗名は三吉と言い、今は法(寶)菩提院住居の由。昔幼少時、善峯へ登山の時、七曲りにて負われて参った。今程中風煩いと承り、病中の助にと御届けを頼む。果てられていたら追善にも遺したい。
5 善峯寺の「中興」―伽藍復興と御朱印地拝領―
・善峯寺領知宛行状
元禄10年(1697)12月28日、幕府から与えられた寺領支配を命じた領知宛行状。 山城国乙訓郡上里村の内50石は元禄6年10月15日に充行った領知の替地。この外、同村の内53石6斗6升、下久世村の内96石3斗4升、高150石は今度新加、都合200石と山林竹木諸役を免除する朱印状の原本。大高檀紙と呼ばれる格式の高い料紙が用いられる。
・「中興書簡」・「中興書簡函」
「中興書簡函」と墨書された桐製の慳貪函に収められていた14冊の書簡等の綴。「中興書簡函」には、現状では他の長帳状の綴を含め20冊が収納されている。これらは全て「善峯寺惣中」宛であること、また編集年月や奥書から判断すると、享保8年(1723)10月に善峯寺七坊の「衆侶」の総意として分類整理されたものと推定される。
・留山争論裁許彩色絵図(留山御寄附ニ付)
元禄7年(1694)12月、幕府から善峯寺へ背戸山を山林の立ち入り伐採を禁じる「留山」とすることを認め寄進されたため、京都所司代小笠原長重(佐渡守)・町奉行松前嘉広(伊豆守)・小出守秀(淡路守)の連署で与えた裁許絵図。長年にわたり三鈷寺と争ってきた背戸山は、これにより善峯寺領と確定した。
6 善峯寺の寺中組織と運営
・輪番年行事日記
善峯寺の七坊が輪番で食堂年行事をつとめ寺務を担っていた。食堂年行事の輪番が日々の寺務を記録した日記は、元禄7年(1694)から明治4年(1872)まで遺されており、一部欠失する年次もあるが、ほぼ全時期にわたって伝存。
・金銀米銭請払帳
「金銀米銭出入覚書」「金銀米銭請取拂之帳」などと題される財政寺務の勘定帳。残念ながら天保期以降の請払帳が確認できないが、元禄8年から天保期の善峯寺の財政状況を窺う貴重な史料。
特集企画「下鳥羽法伝寺の住持争論関係文書」主な展示品
正親町天皇勅書(写カ)
正親町天皇から三条西実枝に宛てた綸旨。
三条西公國寄進状
三条西公國が、三男旭應を法伝寺の住持にするため、幼少である旭應の後見を依頼した遣迎院に法伝寺を寄進する旨を伝えた証文。
三条西公國書状
三条西公國が、三男旭應(三歳)を三条西家の領地にある法伝寺の住持に定め、その後見を遣迎院に依頼した書状。
正親町天皇女房奉書
正親町天皇の意向を、勧修寺晴豊を通じて伝達した女房奉書。
羽柴美濃守長秀書状
羽柴長秀が、法伝寺の住持職争論について、湛蓮社による「引き壊し」(略奪カ)を、「遠慮」(辞退)するよう命じたことを、遣迎院に伝えた書状。
真誉譲請状(写)
浄土宗僧真誉から遣迎院に宛て、法伝寺の住持職について師弟の契約を交わし、真誉に住持を譲るとする譲請状。
三条西実条訴状(控)
三条西実条が、関ヶ原合戦後の京都支配を命じられていた京都所司代の三人に宛て、「天ねんし(天然寺、又ハ天蓮社カ)」との法伝寺の住持職争論の解決を願った訴状の控え。

寺宝館外観

寺宝館館内

