善峯寺の信仰

ご本尊千手観世音菩薩は、開山より性別身分年齢を問わず広く崇敬されています。また薬師如来は、徳川五代将軍の生母桂昌院を玉の輿へと導いた開運出世のお薬師さまとして、釈迦如来は腰痛神経痛「当病悉除」、「息災安穏」“おちないお守り”として親しまれて信仰されています。現在まで多くの霊験をお示しになられた信仰篤い観音信仰、薬師如来信仰、釈迦如来信仰をご紹介します。

観音信仰

善峯寺のご本尊千手観世音菩薩は西国三十三所観音霊場20番札所のご本尊として拝され、京都洛西観音霊場1番、神仏霊場の一つとして巡礼信仰されています。

西国20番ご詠歌 ”野をもすぎ 山路に向う 雨の空 よしみねよりも はるる夕立”

洛西1番ご詠歌 ”わけのぼる むかうこころは よしみねや みのりをおえし たかきやまかげ”

大悲殿納経

大悲殿納経

観音堂ご宝前で奉修される大般若会

観音堂ご宝前で奉修される大般若会

勅遷ご本尊の由来

ご本尊の御衣木(みそぎ。尊像を作るのに用いる木材)は、下鴨神社の槻の霊木にて安居院(あぐい)仁弘法師御作と伝えられています。
昔、賀茂神社地田の田主が苗を植えると、苗が一夜にして槻(けやき)の木へと変わりました。後に槻の木は朽ち折れて倒れますが、その木から千手観音の真言が聞こえるので皆不思議に思い、誰も斧を入れませんでした。歳月が流れて、寛弘年間(1004~1012)に行円上人が霊夢を受けて、賀茂神社の神主を詣って夢の内容を話されたところ、神主は槻の木を斬って行円上人に与えました。この材をもって西国19番行願寺(革堂)にご自作の千手観音を奉安されます。この霊木の余材を仁弘法師が得て、千手観音をお刻みになり洛東の鷲尾寺に奉安されました。
そして後朱雀天皇は、「後世の利益のために鷲尾寺の千手観音像を源算開基の良峯にお移ししなさい」と夢の中でお告げを受けられます。後朱雀天皇は勅使を鷲尾寺に遣わして夢の内容を伝えたところ、仁弘法師の弟子である章円上人と大衆は深く感心されて、「良峯に移し奉るべき」と勅答されました。こうして長久3年(1042)3月18日勅宣があり、鷲尾寺の千手観音は当山に遷座されました。共に章円上人も当山にお移りになり、ご本尊の供養を怠ることなく源算上人にお仕えしました。

『西山良峰寺縁起』本尊を拝する人々

『西山良峰寺縁起』本尊を拝する人々

観世音菩薩の霊験

天喜元年(1053)尊仁親王(後の後三条天皇)の妃、藤原茂子は御懐妊しますが、気持ちは落ち着かず深く悩まれて、当山の観音に祈らせました。すると茂子は、不思議な童子が現れて御懐妊の腹を撫でる夢を見ました。目が覚めると、身心共にすがすがしく悩みも静まり、また安産で男子を出生されました。親王も大いに喜ばれ、その子を貞仁王と名付けます。貞仁王は後に即位されて白河天皇となり、ご出生の由緒により本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、二王門、鎮守七社を建立されました。

正元元年(1259)、正月頃より洛中で疫病が発生して、多くの方が亡くなりました。後深草天皇も病にかかり、医療を施しても良くならず、皇后は御歎きになり、寺社に平癒の祈願をさせます。善峯寺では大悲観世音に祈らせました。すると夢に僧が現れて、
「天皇の御悩こたびは平復ましまさじ。然れども汝の深い信心を感ずる故に、死を転じて長生ならしめむ。洛中の諸人も皆ともに安穏ならしむべし。いよいよ慎んで持念おこたるべからず。我の住む家は西山善峯にあり。」
といわれ、千手観音の御姿を現して明るく光って空に上りました。皇后はお悦びになり礼拝され、音楽が御耳に残る中で夢がさめました。後深草天皇へ皇后はその夢を伝えさせると、天皇も同じ御夢を御覧になったことを語られて、ほどなく病はおさまりました。洛中でも同じ夢を見た人が多く、諸人の疫病も収まり愈えたそうです。この霊夢により後深草天皇は観世音菩薩を深く信仰されました。

『西山良峯寺縁起』霊夢をかたる後深草院

『西山良峯寺縁起』霊夢をかたる後深草院

出世薬師如来

薬師如来は徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院出生の由緒により、玉の輿へと導いた「出世薬師如来」と崇められ、「開運出世」の信仰を集めています。

出世薬師如来のいわれ

綱吉の外祖父本庄氏は当山薬師如来に一女子を得る事を願い、寛永4年(1627)に女子が生まれました。その子は後に徳川五代将軍の生母桂昌院となりました。
元禄11年(1698)に薬師如来に歌を献じます。
たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏
「たらちを」とは実父のことで、将軍の生母となってからも父の薬師信仰を忘れずにお過ごしになりました。
当山薬師如来は、将軍の生母へと出世された桂昌院由緒により、開運出世のご利益を授ける「出世薬師如来」として信仰されています。

『薬師如来献詠』桂昌院筆

『薬師如来献詠』桂昌院筆

薬師堂

薬師堂

薬師如来 開運出世守り

薬師如来 開運出世守り

釈迦如来信仰

釈迦如来は明治時代の遷座霊験より、腰痛神経痛など「当病悉除」の信仰を広く集めています。また平成7年阪神淡路大震災の霊験より「息災安穏」の信仰を集めて、「おちないお守り」として親しまれています。

釈迦岳について

観音堂より南西十五町の山には、開山上人自作により釈迦如来石像が奉安されました。この由緒によって、この山は釈迦岳と呼ばれています。釈迦如来の夢告により明治11年に境内に遷されました。現在、釈迦岳には多くの登山者が訪れています。

腰痛神経痛への霊験

源算上人御作で合掌姿の石仏釈迦如来は釈迦岳(当山観音堂の南嶺)頂上の小堂に祀られます。その後、多くの争乱でお堂は焼失し、雨風を受けてお座りになり信仰されました。明治に入り、釈迦如来より遷座の夢告を当時の住職が受けて、明治11年(1878)薬師堂(現釈迦堂の地)にお遷りになって合祀されます。このお遷しする時に、釈迦如来は玉の汗をおかきになられ、その汗を布でお拭いしました。そして、その布を体の病気の所や痛む所に当てると、不思議なことにすぐ病や痛みが癒えました。そこから、五体安穏や腰痛神経痛など「当病悉除」“霊験あらたかなお釈迦さま”として評判が広まりました。そして明治18年(1885)信徒浄財により釈迦堂建立、同20年(1887)奉安されて、現在に至ります。現在も広く崇敬されています。

石仏釈迦如来の奉安される釈迦堂

石仏釈迦如来の奉安される釈迦堂

釈迦如来 腰痛神経痛守りとおちないお守り

釈迦如来 腰痛神経痛守りとおちないお守り
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おちないお守り

平成7年1月、阪神淡路大震災で1台のバスが被災し、阪神高速高架で車両の前輪が落ちながらも、バスは宙吊りの状態で止まり奇跡的に乗客の方は助かりました。その運転手さんが当山釈迦如来のお守りを奉持していたことから、入試合格や交通安全など「おちないお守り」として評判になりました。これまでの「当病悉除」と別願にあたる「息災安穏」のご利益を仰ぐ方々が多く、またバス運転手さんの奇跡に伴い、現在はお守りを「当病悉除」と「息災安穏」の2種に願意を分けて授与しています。

平成27年参拝された「おちないバス」運転手の福本さんご一行と住職

平成27年「おちないバス」運転手 福本さんご一行と住職

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