善峯寺の歴史
善峯寺ゆかりの人々

善峯寺ゆかりの人々

源算上人によって開かれた善峯寺には多くの高僧が住山しました。
時代の大きな苦難を乗り越えて、祖師先徳檀越のご尽力により、現在の法灯が伝えられています。
このページでは祖師先徳ならびに中興大檀越をご紹介します。

善峯寺の祖師先徳たち

開山源算上人

『源算上人御影』

『源算上人御影』

永観元年(983)因幡国(現:鳥取県)のお生まれです。幼少に但馬国進見の明運上人の許で生活されて、その後比叡山に上がり、横川の恵心僧都(源信)に師事して天台教学(顕教や密教)を修めました。47歳に善峯寺を開かれてからも世俗の名聞利養を捨てた生活をされ、霊地に神仏を祀り、法華講会や写経供養会など数々の法会を行われます。また多くの行法により霊験を示されて、「希世ノ碩徳台門ノ長者」と民衆から仰がれます。93歳に退隠の地として北尾往生院に入り念仏三昧の生活をされます。承徳3年(1099)117歳で入寂されました。

観性法橋

葉室中納言顕隆の孫、美作守藤原顕能の子、天台座主顕真僧正の弟である名門出身の観性法橋は、博学多才で修力と画技に長けた高僧です。応保年間(1161~)より住山、中興の功績により二世と仰がれます。描写した如法佛眼曼荼羅を三鈷寺本尊として奉安され、法華堂、常行堂建立と法華経読誦や称名念仏を定め行われました。文治5年(1189)源頼朝の願いにより鶴岡八幡宮大塔供養の導師を勤めます。法要後に頼朝公は観性法橋の泊まる旅館を訪れて、法要のことを質問すると、観性法橋は懸河のごとく答弁されたので、深く尊敬されました。帰山されると頼朝公より二十八部衆執金剛神を寄付する約諾があり、南都の仏工運慶彫刻による二十八部衆は、本尊千手観音脇侍として奉安されました。法橋は建久元年(1190)10月10日に入寂されました。

『西山良峯寺縁起』鶴岡八幡宮大塔落慶法要

『西山良峯寺縁起』鶴岡八幡宮大塔落慶法要

慈鎮和尚

『慈鎮和尚御影』大乗院蔵

『慈鎮和尚御影』大乗院蔵

法性寺関白藤原忠通の子、関白九条兼実の弟で、久寿2年(1155)のお生まれです。当山と縁のある覚快親王、観性法橋より仏法を受けます。台宗の碩徳のみならず、歌人、文学者としても有名です。天台座主職の任の間にたびたび住山されました。当山興隆の功績多く当山三世と仰がれます。和尚三十歳前後には、当山に住する観性法橋を訪ねるため、時々来山したようです。建久3年(1192)後鳥羽天皇より「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。和尚は源算上人より始められた法華八講を、末代まで広めようと如法経堂を建立して、伝教大師の写された法華経一部を納めました。その包紙には「法の花 伝え教へし筆の跡 良峯寺の宝ともなれ」とお書きになったと伝えられています。嘉禄元年(1225)9月25日入寂、遺命により当山御陵に分骨埋葬されました。

ご住山の高僧名僧

慈鎮和尚をはじめ、道覚親王、道玄僧正、慈道親王、尊円親王、尊道親王といった天台座主を勤めた高僧、浄土宗西山派の祖師である証空上人、法然証空両上人に仕えて歌人として有名な実信房蓮生法師が住山されました。

尊円親王筆「和漢朗詠歌巻下」

尊円親王筆「和漢朗詠歌巻下」

中興大檀越 桂昌院

桂昌院寺伝

『桂昌院御影』

『桂昌院御影』

寺伝によると、寛永4年(1627)京都堀川に生まれて、6歳の時に義兄善峯寺成就坊賢海の許にて母の栄女とともに同居されます。後に師父宗正の許に帰り13才で父を亡くします。正保元年(1644)継母お蒔女の紹介により、春日局に従い江戸に下り、徳川家に仕えます。これより幼名お吉をお玉と改めます。徳川家光の寵を得て正保3年(1646)綱吉を産みました。この時お玉20歳でこれより大夫人となり宗子と改名します。慶安4年(1651)家光薨去します。この時25歳で桂昌院と号して、神田また白山殿に居します。延宝8年(1680)綱吉将軍宣下して、江戸城三の丸に転居します。諸衆は三の丸殿と崇称します。以後、善峯金蔵二寺を始め神社仏閣を改新築され、寺禄を付すなどその多くの善根を施しました。元禄15年(1702)従一位を叙位され、宝永2年(1705)6月21日薨去、増上寺に葬られます。当山には中興願主の功績により、多宝塔北上の一等地に御廟所が建てられました。

桂昌院の献じた和歌

元禄11年(1698)正月桂昌院は和歌二首を本尊の観世音菩薩及び薬師如来に献詠しました。

『観世音菩薩献詠』桂昌院筆

『観世音菩薩献詠』桂昌院筆

萬世を とかへりへても 盡せしと
君を恵みの 南無観世音

※「とかへり」十返り、祝賀の意

『薬師如来献詠』桂昌院筆

『薬師如来献詠』桂昌院筆

たらちをの 願いをこめし 寺なれば
われも忘れじ 南無薬師仏

※「たらちを」実父のこと

当山観世音菩薩及び薬師如来への報恩謝徳の気持ちも寄進復興の原動力となったようです。

生類憐れみの令のこと

桂昌院の権力を象徴する最も有名なお話として「生類憐れみの令」があります。徳川綱吉に嫡子がないのを心配した桂昌院が、僧 隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる。」との言葉を信じ、綱吉に訴えたことから始まった悪政とされていますが、最近の説では、本来将軍になるはずもない勉学ひとすじの綱吉が、犬猫動物はもとより人まで試し切りの対象となっていた殺伐とした江戸の世相を憂い、儒教の精神で変革しようとしたものであって、平和な社会に変換させた、との再評価もなされています。善峯寺の諸堂と徳川家ゆかりの品々は、桂昌院の仏教に対する深く厚い信仰心があったからこそ伝えられているのです。

桂昌院御像

桂昌院御像

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