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◆ゆがめられたイメージ
1999年のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」を皆さんはご覧になられたでしょうか。
こういった、娯楽時代劇に登場する桂昌院は、子の五代将軍徳川綱吉と共に、よろしくないイメージで描かれるようです。
しかし、実際のところ如何なる人物だったのか、ご存知の方は極めて少ないはずです。
彼女の生い立ちや人生を正しく見つめ直し、善峯寺との関わりや、信仰に生きた本当の彼女の姿を浮き彫りにしてみたいと思います。
◆生い立ち
一六二七年(寛永四年)、京都堀川の八百屋仁右衛門の次女としてお生まれになり、その名をお玉といいました。
父仁右衛門は、二条関白の家司である本庄家と交流ががあり、善峯寺の観音様や薬師様をたいへん信仰され、ひんぱんにお参りされておりました。
仁右衛門が亡くなると、お玉の母は善峯寺の観音様のご縁により約二年半、お玉と共に善峯寺にご奉仕されました。
その後、この頃の淡い経験から善峯寺の薬師如来を想い、「たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」
と詠んでおられます。
仁右衛門が亡くなると、お玉の母は本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出ます。
やがて宗正の後妻となり、本庄宗正がお玉の義理の父となりました。
成長したお玉は徳川家光の愛妾お万の方と二条家につながりがあったため、三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となるため江戸へ下りました。
◆大奥へ
十八歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。
二十歳になると、徳松(後の五代将軍綱吉)を安産します。
一六六一年(慶安四年)四月二十日、二六歳の時、家光の死に際し、落飾して(尼となって)桂昌院と称するようになり、綱吉と共に江戸藩邸に住むことになりました。
一六八〇年(延宝八年)八月、桂昌院五四歳の時、我が子綱吉が五代将軍に就任。
江戸城中三之丸に居を移しました。
そのことから三之丸様と呼ばれ、大奥での力は絶大となり、一七〇二年(元緑十五年)三月、七六歳の時、従一位という最高の位階に叙せられることにもなりました。
一七〇六年(宝永二年)六月二十二日、七九歳、江戸城中で亡くなられますが、芝増上寺に葬られ、この善峯寺にも遺髮が納められたのです。
◆信仰と政治
このように破格の出世をとげられ、権力を手に入れた桂昌院ですが、現代の娯楽時代劇に登場する彼女とは、いささか様子が違ってきます。
この善峯寺をはじめ、応仁の乱で焼き払われ、再建不可能と言われた数々の大寺院の復興事業や寺院建立など、後の世に生きる我々に、計り知れないほどの大切な仏教遺産を残して頂きました。
このことが、当時の財政を圧迫させたと言われてきましたが、今日では、今でいう景気刺激、公共投資のようなもので、仏教を中心とした宗教心を柱に庶民文化を建て直すことの必要性を示したもので、むしろ文化的積極財政と評価されています。
◆生類憐れみの令 のこと
娯楽時代劇に出てくる、彼女の権力を象徴する最も有名なお話として「生類憐れみの令」があります。
綱吉に嫡子がないのを心配した桂昌院が、僧 隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる。」
との言葉を信じ、綱吉に訴えたことから始まった悪政とされていますが、最近の説では、本来将軍になるはずもない勉学ひとすじの堅物綱吉が、犬猫動物はもとより人まで試し切りの対象となっていた殺伐とした江戸の世相を憂い、儒教の精神で変革しようとしたものであって、平和な社会に変換させた、との再評価もなされているのです。
皆さんが、何れ善峯寺 寺宝館文珠堂で、ご覧になられるであろう桂昌院ゆかりの品々は、善峯寺諸堂とともに、彼女の仏教に対する深く厚い信仰心があったればこそ、拝見することができるのです。
詳しくは、ここにて。
合掌
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