掃部光昭がやさしく説く
ほんわか説法
| No47 P8 からのお布施
檀信徒の奥様から、こんな相談をうけました。 お祝い事で、お隣から御祝儀をいただいたそうです。ありがたくいただいて、夜、その袋を開けてみますと、なんと空っぽなのです。包み紙には、金額が書いてあります。しかし中味は空っぽなんです。お隣の方ももちろん悪意であろうはずがありません。 さあ奥さんは困りました。「お祝いのお返しをどうしようかしら」あれこれ思案されているうちに腹も立ってきたようです。 「だって何も貰っていないのに、お返しなんて。でもお返ししなければ変だし、空っぽでしたと言いに行けば、気まずくなるかも」それでとうとう私に相談したということです。こんな相談には私も因ってしまいます。 私にも似たような経験があります。ある檀信徒さんのお葬式に行った時のことです。初七日の時にお葬式のお布施を手を合わせていただきました。さてその日の夜、お布施の袋を開けるとなんと空っぽです。坊さんとて人の子です。 あるはずのお布施の中味が空っぽでは、正直に言えばガックリきました。でも坊さんの立場としては、お布施の中味が空っぽでしたからと催促しにくいものです。 「まあいいや、このお家には、遠いからという理由で、お盆にもお伺いした事はないし・・・仕方ないか」と本来の気楽な性格、深く考えませんでした。そのすぐ後、電話がありました。「あのもう一つお布施の袋が出てきたんです、開けてみるとお金が入っています。ひょっとすると、副住職さんに差し上げたお布施の中は空っぽだったのでは」と恐縮し切った声で奥さんが話します。私は、正直いってホッとしました。 お釈迦様の十大弟子の一人に須菩提様という方がおられます。この須菩提さまに、インドのマガタ国の王さまが供養として小屋を寄進されました。ところが、その不思議なことに、その小屋には、屋根がありませんでした。屋根を葺くことを忘れていたのです。屋根のない家なんて、私たちから見ると貰わぬ方がましです。しかし、須菩提さまは、その小屋をありたがたく頂戴し、住まわれたのです。天もその間は遠慮して雨を降らせなかったそうです。そのため、マガタ国は早魅に苦しみ原因を調べた王さまは、あわてて須菩提様の小屋の屋根を葺いたそうです。 「たとえ空の袋でも、いただかなくてはならない時には、ありがたくこれを受けましょう。あとは何とかなるものです」と奥さんにこの時こう答えました。後日、空っぽの御祝儀に気づかれたお隣さんは、改めてお祝いを持ってこられたそうです。人生、後で笑い話になることが多いのです。 |
| No46 P33 編集後記 より 心 眼 物事の真の姿をはっきりと見きわめる心のはたらきを「心眼」 といいます。もちろん物事を見るはたらきは、目がします。 でも心がしっかりしていないと、目は清浄なはたらきをすることができなくなります。 目が見えるばっかりに、かえっていろんな迷いを起こしてしまうということにもなりかねません。だから物事を知ろうとする時には「心の眼で見よ」と仏さまは説かれているのです。 まず物事は平静な心で見ることです。 そうすれば、どんな物事からも、なにかを教えられ、素直な心で見れば、生かされている生命の尊さに感動します。 見識(けんしき)とは、よくいったもので、見るとは識(し)ることの大本(おおもと)です。だからなんでも、よく見なければなりません。 私たちは生まれた時からまわりの物の見まねで大きくなって来ました。 学ぶという言葉のもとは、「頭」だといわれます。 どうせ真似るなら、よりよく真似なければなりません。心が曲がっていては、間違った真似をしてしまいます。私たちが正しく生きようと心がける時、まわりの物は、みな先生として目に映るのです。
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No45:P9より
お経なんて、何をいっているかちっともわからない」という方がいらっしやいますが、耳から聴いているかぎりでは、まさにチンプンカンプンですね。 ところがみなさんは日常生活のなかで、けっこうお経の言葉を使っているのですよ。 たとえば「今度は絶対に敗けないぞ」といったときの″絶対〃という言葉はお経のなかから出た言葉です。 「ああ・・・できれば安楽にいかせてあげたいと思います」・・・"安楽"もお経の言葉。 「いいえ、私は一つの方便として申し上げたまででして」・・・この "方便"も元の意味と違って使われているようですが、お経の言葉です。 いつでしたか五つ子ちゃんが話題になったことがあります。五人元気に大きくなられたと聞いていますが、五つ子ちゃんの名づけ親は、京都の有名な西国第16番札所清水寺のいまは亡き大西良慶貫主猊下でした。 『観音経』の一節に「観音妙智カ」とありますが、このなかから妙を取って妙子ちゃん、智を取って智子ちゃん、また「福聚海無量」 の一節から、福を取って福太郎君、聚を寿といういう字にして寿子ちゃん、海という字を太平洋の洋にして洋平君とされた様です。 思えば五つ子ちゃんたちは、生涯いくたびとなく『観音経』の言葉を唱えたり、呼びかけられたりして生きていくわけですから、貫主現下の願い通り、観音様のご加護をいただいて幸福な道を歩まれるに違いありません。 「あいつは唯我独尊だからなぁ」などと、協調性のない人を非難する人がいますが、この『長阿含経』というお経に出てくる″唯我独尊″とは、自分だけが尊いという意味ではなく一人一人の人間の尊さ、つまりすべての人々の尊さをいっている言葉ですが、こんなむずかしいお経の言葉が日常使われているのです。 今申しあげました、「絶対」「安楽」「方便」 「唯我独尊」等、あげると限が無いぐらい日常生活に使っております。 さて、この様になにげなしに使っているお経の言葉も本題のお経になると大変むずかしい言葉の連続ですね。そこで今回「西山善峯つれづれ第45号より少しずつ色々な参考文献を基に、一般の方にも理解できるように載せていきたいと考えおります。
『訳』 この上なくたいへん深くすばらしいお釈迦様の教えは、「百千万カルパという長い時間をかけても、めぐりあうことはむずかしい。 「それをわたしはいま、見聞きし、しかもわがものとすることができた。どうしてもお釈迦様ののべられた真実の教えを理解したてまつる。 (解説) 開経偈は、経を読むに先立って、その理解を誓いねがう文です。 比叡山横川におられ、善峯寺のお寺を開かれた源算上人の師匠にあたる「往生要集」を著わされた恵心僧都源信の 「読経用心」 の末に 「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得……」という文が出ているという考え方は、「阿含経」以来の「人身受け難し今遭い難い仏法に遭った」という折角な、チャンスを大切にして仏道に進むべきだということである。 (注) 百千万・・・劫はカルパ、長い時間の単位。 受持・・・「妙法蓮華経」法師品に五種法師行として、(法華経)を受持・読・諭・解説・書写との五種法師行をすすめるが、受持とは仏法、経典をみずからのものとして大切にしていくことを指す。
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