西暦2002年夏、47号より
P4より
吾れ、当時は数え二十一歳に成っても、成人式はない。然して、之に変って一銭五厘のお招きは厳しい。 昭和十三年一月十日補充兵として、臨時召集、歩兵第三十七聯隊(れんたい)留守隊に応召と来た。 そして、廿四日夜十時頃か?、聯隊を出発す。軍装して大阪港迄約10Kmの距離か、道中、有り難いのは、道の両側には見送りの人々の波、各個に食物、火の着けた煙草等、感謝感激で港に着く。やがて夜が明ける。 吾等は乗船、船は進む、小舟が廻りて取り巻く。元気でと大声の見送りの歓声だった。 船は何隻か解らない。瀬戸内海は静かなり。下関を通過して玄界灘に入ると、波は高いし荒い、気分が悪い! 大連上陸・ハルピンを経て三十一日、満州牡丹江線の亮子嶺(りょしれい)に着いた。 満州は寒い。何しろ一月のこと、日本でも大寒で有り、当地は寒いどころではない。 痛い所である。当地では、三寒四温、雫下二十度でも風の無い時は暖かく感ずる。 朝稽古(けいこ)は必ず銃剣術を三十分位する。汗が出る。各班の部屋には、ペーチカが焚かれて、温かい。扉や窓は全て二重になって、暖の逃げない様にしてある。 尾籠(びろう)なはなしだが、使役となって便所掃除に行くと、大小が囲まって居る。大には隔ての紙有り、つるの様な道具で毀す。 小は固まりて、なかなか鶴嘴(つるはし)では取るのに、困難であるし、塩味が飛ぶ。 五月に成ると、急に暖かく、近くの山には、スズラン、シャクヤク等の、草花が一斉に咲く。 擬りし川に水が動く、流る。冬の間当地の学校では、校庭に水を張り、スケート場にして余暇に遊んで居る。 この様な大地に、大変暢気な日々を過ごしたが、時々俄に暗雲起こる。 即ち、昭和十三年七月、張鼓峰(ちょうこほう)事件、次に昭和十四年五月二日の偉大なる、ノモンハン事件で有る。 此のノモンハン事件は、モンゴル国と、満州との国境で、ソ連軍は、空軍並に機械化部隊を繰り出して、日本軍は壊滅的打撃を受けた。我が隊も出動して、帰らぬ人と成る。関東軍の近代的装備の劣勢を表した事である。遺憾この上もない。又独ソ不可侵条約を結び、国際情勢が変化して、遂に九月十五日停戦協定に至った。 関東軍は安閑としては! ソ連に向かふには、いかに国境を守備せねばと。又日本より部隊の増強等の専念に至った。 第二回の赤紙 二年有余のお勤めも、無罪放免と成って、古里帰寺と成りました。 さて・・・・日本は、昭和十五年頃から、何やら空元気か?種々の催し事を成して、知らしめたのでしょう。日独伊三国同盟成立、紀元二千六百年祭式典の盛大厳粛執行等。 一方島国同様の国内では、節約の為め、物の配給統制制度を実施、国民挙国一致体制進行と成り、又三国以外の国々は、日本に種々の取引ストップの支那事変は戦果を挙げて居るものゝ、現地自活にして、迷惑の至りで有る。状況はかくの如し。 然して吾は、昭和十六年七月八日二度のお迎え来る。殊にお盆前の寺の行事も何のその、師匠にお願いして、元気よく、師も帰って来いよの言葉を秘めて出発す。二回目の出発は、夜逃 げの如く、静かに暗黙の内に消えるが如くで有る。道順は大阪港より、朝鮮馬山に上陸、ハルピン・牡丹江を経て平陽に到着警備と成る。 然して、平陽の兵舎は俄か造りで、一個大隊、東方国境迄は約八キロメートル有る。国境には我が軍の厳然たる装備、即ち「トーチカ」造り、水の確保たるや三ヶ月等有り、お互いに睨み合う国境線で有る。兵舎は二階建で、各兵舎は「ストーブ」有り、二Fは暑いが、一Fは寒い、若い者には寒さを感じない。部隊が大きいので、食事は雑で有り、例えば馬鈴薯(ばれいしょ=じゃがいも)は皮つきに切り味噌汁の具と成り、炊事班も数ものは面倒だからしない。 お正月は正月気分の為、餅搗(もちつき)実施す。正月前に子餅が班に舞う。原因は、炊事使役兵が餅を抱くが、幾分が口に入れずに物入れに入れて来る滑稽さで有る。又煙草の有る時は沢山酒保に有り、当時ホマレ二十本人り四銭で有る。 切れると班内禁煙に等しい。要領の古兵は内地より封筒で毎日3本づつ送らす。其のお零れを頂く。助け合いの戦友で有り難い。平陽で八ケ月の勤務。次に又転属して密山に至り当地の警備。又転属の命令有りて安堵なり。 十二月七日、朝鮮を経て、下関上陸、中部第六十七部隊に編入し、十五日、召集解除、古里に帰る。 第二回目は一年半余のお勤めで有った。然して、二回目も無事帰寺出来たのは、御本尊観音さまの御守り下さったお陰に外ならない有り難い幸で有る。 机に向い、濃い緑のもみじを眺め乍ら、無き頭を絞って、つれづれを書く。やがて晩秋には、色とりどりの色と成り参詣者を迎える。紅葉即ち観世音さまの説法なり。副住そばに居て、もぅ何んぼも書けないよ、楽しんで書きなさいと一言!、静かに厳しい深い一言。
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P12より
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| P15より 桂 昌 院 (五代将軍徳川綱吉公御生母) 二百九十八回御遠忌によせて
さて、桂昌院さんと善峯寺には深い繋がりがあります。桂昌院さんは、皆さんもご存知のとおり、徳川五代将軍綱吉公の御生母です。三代将軍徳川家光公の側室となり、後の綱吉公をお生みになりました。江戸城大奥を取り仕切る立場になられ、また従一位という、女性では最高の位に叙せられた人ですが、元々は、京都の青物商の娘でした。彼女のお母さんが大変信仰心に厚い人で、善峯寺の観音さんとお薬師さんにお参りなさっていたので、桂昌院さんは幼少の頃、お母さんに連れられて善峯寺にひんばんに訪れ、遊んでいらっしやいました。 その頃の善峯寺は、今のこの椅麗に整えられたお寺とは違い、大変質素なものでした。 というのは、善峯寺には平安時代中期からの古い歴史があり、歴代天皇の崇敬あつく、「西山宮」という門跡寺院となって、五十あまりものお堂や塔のある大寺院だったのですが、室町時代の応仁の乱で全て焼けてしまっていたのです。 今では想像もできないような荒廃した姿であったと思われます。 その頃の歴代の住職は、なんとかお寺を再建しようとしたのですが、なかなかうまくいくものではなく、お寺が・焼けてからどうすることもできず、年月だけが流れてしまいました。 このお寺復興の念願は、お寺が焼けてから二百年あまり経ったのち、桂昌院さんによってやっと叶えられることになります。善峯寺で済んでいらっしやつた桂昌院さんが、破格の出世をされたと聞いた当時の住職は、なんとかお寺を復興したいと頼みにいったところ、快く願いをきいてくださったわけです。簡素なお寺での生活というのは、実に質素であったでしょうから、貧しかったときの過去などほりおこしてほしくないというのが、出世した物の自然な気持ちでしょう。しかし、善峯寺のことを思い起こした時、桂昌院さんの心には、幼少の頃にお母さんと暮らした楽しい思い出となってあらわれたのではないかと思います。 現在のお堂のほとんどは、桂昌院さんの援助によって再建されたものです。又、本堂の隣の寺宝館・文殊堂には、桂昌院さんが愛用されたもの、またそのゆかりの品々がたくさんあります。私たちが善峯寺で目にする全てのものに、桂昌院さんの深く厚い信仰心が溢れているのです。 桂昌院さんへの感謝の気持ちを忘れず、これから毎年、御遠忌の法要を皆さんと共にとりおこなっていきたいと思っております。
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