西暦2001年夏、45号より
P4より
吾れ、馬齢八十四歳、まだお迎えなんて、考えていない。然し息子が申すには、生物は勿論のこと、人間も必ず滅することは間違いない。 父の歎徳(たんどく)の参考にしたいとの事、生前の遺言書かなとは思えども、書くことに決心した。 私が、この世に生を受けたのは、大正六年九月十八日、観音さまの御縁日でした。この観音さまの導きで、善峯寺に、ご厄介となりました。 私の父は、堅治と申して、名前は堅くて良いが、反面わるいと言えば、真撃一筋でした。例えば畑の手伝いをすると、やり直し、大根の種を蒔くにも、畝(うね)に線を引き、蒔かねば、納得しない。僅か一畝か二畝に! 又一面父は、怖いものでした。昔からの諺に、地震・雷・火事・親父とか。 父は金樋(かなづち)、近くの淀川には用はないのです。 私等兄弟は其の眼を盗んで泳ぎに参りました。つい遅くなる、忍足にも、父は待って居る。 お説教は僧のするものではない。 一般に悪用されたと取る次第です。 然し親の意見と冷や酒は云々です。 後で利きます。晩年寺の掃除やら、何事にも手伝って頂き観音さまのようでした。 母は私を生み、兄は大正三年四月二十九日生、昭和二十年四月十日、フィリピンにて戦死、私は二番目でした。 円満な家庭に逆境が訪れました。母は腸チフスとのこと、早速離れの部屋に隔離となりました。当時は寒い冬のこと故、兄と私と池や川の氷を取りに行った事が、夢の様です。母の体温を冷やす為に、縄で氷を括り、母の所まで運んだことです。 然して、薬石の効がなく、大正十一年二月十六日、二十九歳で他界致しました。 今書きもっても、涙が催し、遠い昔に回向したいものです。 私は四歳でした。悲しいなんての分別つかず、大勢の人々が来て、お祭りの如き賑わいでした。兄は一年生だから悲しかったでしょう。 私の所作が、会葬者に一層悲しみを増した事でしょう。 暫くして、父は役所勤め、子ども二人の面倒も難しく、後妻を迎えました。 兄弟にとっては、幸一杯の母でした。然し、田舎は大変です。 父の姉達が五人もたむろして、四面楚歌の感に打たれました。継母を云いふらすのです。私には前の母も、今の母も同じです。
子供の時はお乳は、兄は第一番に、次に弟が権利が有るなんて、理屈ではなく、 後の母の乳を、しやぶりました。 本当によい母、この母に子供が出来ました。 私より十歳下ですが、早や他界して、本年十七回忌、母は十三回忌、八十八歳の長寿をたもって下さいました。 父の母は大正十四年に、父は昭和三十七年六月に他界致しました。 昔の葬式に就てお盆、ご先祖の供養、回向のことですから葬式がいかがで有ったかを、記憶を辿って見ます。お釈迦さまは、人生には四苦あり、即ち、生れる、歳をとる、病気になる、死を迎える。 この他に、四苦あり、即ち、後の四苦は、怒憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦・前後合わせて八苦と成る。四苦四苦(しくしく)泣くは、人間のみで有ります。 ところで、臨終に成りますと、お医者さまは、手を離す、檀那寺のお寺さまを迎えに、参ります。 ここで仏は、枕経を頂き、(まだ佛の位には成って居ないが、一般には、佛と云ふ)、やがて、西向きの北枕で、布団の上には、魔除けの刀物を置く。暫くして、仏前の部屋の畳を、二枚揚げ、湯潅が始まる。 人生に於て、生れる時も湯潅、死しても湯潅。 昔より盥(たらい)に至る五十年と申されました。 又、棺は必ず坐棺である。夕景、墓場に出発の準備、棺(こし)をかくものは、必ず身内の者。 門を出発する時は、生前の茶碗を割り、又三回庭にて廻る等は、再度帰らぬ様にて、行列は出発する。 焼場は集落五・六ヶ所の中央に有り、立派な建物で造られて、中には中央石にて囲み、当方は田畑のみで木はなく、病人あらば必ず割木一駄、米4斗の準備をせねばならない。 焼場に着くと、僧侶の最後の供養(野辺の式)が、行れる。 之が終れば、火葬と成る。夜遅く、充分に焼け、仏に成って居るかを、見に行く。 明朝、親族お骨あげと成る。仏間に四十九日間は「中有(ちゅう)」と申し、逮夜のお勤を行う四十九日に依りて、輪廻(りんね)の位置が決まると申さる。
|
| P19より 北京生まれの巌岩、西国三十三所巡礼ツアー初参加
|