今、なぜか落ち込んでるあなたへ・・・。

お釈迦さまは、「人生は苦であり、常に無常であり、縁により変わり行くものである。」と申されました。
この娑婆において、苦を味わって楽となり苦も喜びとなさねばなりません。
この心の持ち方が、あなたの人生の清らかで輝かしい方向を決定いたします。 


元西国三十三所札所会会長:善峯寺 住職 掃部光暢




四諦(苦集滅道)

人生は苦である。このことを苦諦といいます。苦諦が前提です。人生は楽しいと考える人に人生は苦であると説明する必要はありません。

苦には原因があると考えるのは容易であります。この原因に関することを集諦といいます。

この原因を滅すると人生における苦しみが滅し、やすらぎが得られるはずです。このことを滅諦といいます。

人生における苦は人生に根深く巣くっており、やすらぎを得ようとして、いくら苦の原因を詮索して滅しようとしても、そのような詮索が苦の原因となり、苦となることもあります。
それゆえ、人間は一生涯苦の原因を滅したやすらぎを得ることがないと考えられます。

このことは、人生が苦であり、その苦の原因を詮索し、その原因を滅することでやすらぎを得ようとする者にとって、最大の難問になっています。

釈尊は、この難問を解決しました。この解決を道諦といいます。

この解決によって、道諦苦の消滅に進む道を意味し、苦諦、集諦、滅諦、道諦をまとめて四諦といいます。

人生における苦には原因があり、その原因から苦が生じる。その原因を離れたならば、苦は存在しない。

愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生じる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。
妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。(『真理のことば』212詩〜216詩)

四諦と無常、無我との関係を示す次のような詩句があります。

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。(『真理のことば』277詩〜279詩)

涅槃(ネハン)(ニルヴァーナ)

苦の原因を滅すると、やすらぎが得られます。このやすらぎをニルヴァーナ(涅槃)といいます。

涅槃はやすらぎを意味しますが、をも意味します。
実際に、死体は全ての執着から解き放たれ、苦の原因であるところのあらゆる煩悩を滅した状態にあります。
死は「全ての煩悩が、ローソクの火を消すようになくなる」ので涅槃(やすらぎの境地)であるのです。

仏(ほとけ)も昔(むかし)は人なりき、我等(われら)も終(つゐ)には仏なり、三身仏性具(ぐ)せる身(み)と、知らざりけるこそあはれなれ。(『梁塵秘抄』巻第二/雑法文歌)

ところが、釈尊は、ニルヴァーナが死であるとは決して言っておられません。
また、釈尊は死や死後については、関心がなく、気のないことを述べています。釈尊の主眼は、あくまでも四諦によって人生における苦しみの問題を解決したことだったのです。

怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人びとのあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
(『真理のことば』197詩/200詩/202詩)

参考文献:
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫
『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫
『新訂 梁塵秘抄』佐佐木信綱校訂、岩波文庫